20100129

「未来の本の現在」

日本時間1月28日の未明、私がいびきをかいて寝てる間にアメリカ西海岸ではアップルが長らく噂になっていた新製品、iPadを発表しました。MacBookとiPhoneの間を埋めるモバイル機器と位置づけられているとのことで、形も全くその言葉通り、大型のiPhoneのようでもありMacBookのアルミ製ユニボディのようでもあり。その昔電機メーカーに勤めていた頃、技術者との交流会の事前アンケートで「作りたいモノ」の欄に「何でも出来るつるつるのモノリスみたいなもの」と書いた私にとっては非常に興味深い姿で登場してきました。

新機能、というかAppleの提供する新サービス、iBooksも同時に発表されましたが、これは書籍のデータをオンラインのショップで購入してiPadで読むというサービス。昨夜のいくつかのニュース番組ではAmazonのKindle、ソニーのReaderと合わせて紹介されていました。

ソニーのReaderのことはあまり知りませんが、Kindleとの対比でおもしろいと思ったのは、Kindleは縦型のレイアウトで画面下部に物理的キーボードを備え、ページ送り等の操作も本体左右にある物理的なボタンを押して行うという、極めてオーソドックスな機器然としており、ディスプレイに電子ペーパーを採用している点で技術的な目新しさはあるものの、表示されるページは極めて極めてオーソドックス。その白黒画面を眺めていると誰かに耳元で「漢字Talk7」「ハイパーカード」と囁かれたような錯覚にとらわれました。

対してアップルの方はiPhoneで確立した赤ん坊でも使える直感的なインターフェース
を、また一歩進めてきました。iBooksのページめくりにもそれは遺憾なく発揮されています。アップルはこういった感性面での造り込みでいつも私たちを驚かせてくれます。

さて、iBooksのニュースを聞いて1995年に開かれたある展覧会と、その解説書として同時に刊行された本を思い出しました。1995年と言えば今から15年前。そんなに昔ではないような気もしますが、携帯電話はまだテレビのリモコンのような大きさでいけすかないビジネスエリートの自慢グッズ、カシオが発売した革新的な「デジタルカメラ」QV-10の画素数は25万画素、Macの最上位機種のクロックスピードは110MHzぐらいという時代です。mixiはおろか、2ちゃんねるすら影も形もありません。まさにインターネットの爆発的な普及の前夜、電子メディアがようやく一般人の目に見えるところまでやって来ようかという時代でした。

タイトルは展覧会も書籍もともに [未来の本の未来] (The Future of the Book of the Future)
電子メディアがまさに現実的なものとなっていくダイナミックな時代背景の中で、展覧会は「本」というものを意味のレベルまで解体し、様々な視点から再構築をはかるという研究であり、実験であり、問題を提起する場であったようです。展示されていたものは一見したところ到底本には見えないものもあり、いったい「本」とは人間にとって何なのか、少なくとも「本」の本質とは、一定の大きさの紙に文字や図版が印刷され、それが綴じられてひとかたまりになったものを、一枚ずつめくりながら視覚を通してそこに記録された情報を読み取る行為の中にのみ存在するとは限らないと考える契機を与えてくれるものでした。

それから15年、この展覧会から少し未来になった今、本は空中を通って私たちの手の中にある小さな画面の中に飛んでくるようになりました。重さも厚みもなくなり、時には自分で自分を読み聞かせてくれるようにもなりましたが、指先でページをめくるという昔ながらの動作を忠実に倣った姿で現れた事が面白く感じられました。



参考書籍
[未来の本の未来] 監修・編集 藤幡正樹
情報処理振興事業協会/株式会社ジャストシステム
ISBN4-88309-409-X C0070 P2500E

20100124

六甲山のLED

■神戸・六甲山のネオン 白熱灯からLEDに切り替え
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE100123112200315410.shtml

神戸の町を見下ろす六甲山系。日が落ちた後、海側から眺めるとその山肌に三つのイルミネーションーー神戸の市章、錨のマーク、北前船ーーが見えます。北前船は私が子供の頃にはなかったので比較的新しいはずですが、後の二つ、特に市章は少なくとも30年以上前には既にあったのを覚えています。

神戸市民にとってはおなじみのこのイルミネーション、これまで白熱球を使っていたところ、錨と北前船についてはLEDに換える工事が始まったとか。LED光源は白熱球などに比べ消費電力が少ない上、耐久時間も圧倒的に長いので、白熱球のように球切れ交換のメンテナンス作業も省けるはず。電気代の他に保守点検費用の節約も期待できます。大規模なイルミネーションのLEDへの転換が更に全国レベルで広がって行けばいずれは発電の負荷軽減にも繋がるかなと楽観的に期待。

ニュースの中で、工事費用は2800万円で、これはLEDへの置き換えによって節約できる電気代の87年分に相当すると伝えられていますが、厳しい経済状況の中でこんな金の使い方していいのかという恣意的な報道であるとすればちょっと強引ではないかと。前述のように、メリットは電気代の節約だけにとどまりません。私には、長期的な視野に立った事業であって批判すべき事ではないように思えます。まさか最初から特定の工事業者に便宜供与する目的でわざわざこの事業をつくったというわけでもないでしょうし。

20100123

「ドク、最高の製品はみんな日本製だよ」

ずっと前に見た映画のセリフで強く印象に残っているものがあり、そのセリフの前後関係が気になったのでDVDで見直してみました。映画は「バック・トゥ・ザ・フューチャー Part3」。まだ見た事の無い人のために詳細は書きませんが、1985年のアメリカの若者が、友人の老科学者の発明したタイムマシーンで過去や未来へ行ってあんなことやこんなことを起こしたり巻き込まれたりという、…詳細をお知りになりたい方はWikipediaかgoo映画あたりでお調べください。


さて、気になっていたセリフは次のようなシチュエーションで発せられていました。


 1955年の古い廃坑で

 1985年に生きる主人公マーティが、

 1955年当時の科学者ドクと一緒に

 1885年に、1985年のドクが隠した

 1985年のタイムマシーンを発掘しながら(あ~ややこし)


 故障した部品を仔細に見ていたドク。

 ドク  「こんな小さい部品の故障が大問題につながるとは…

      ふん、道理で壊れるわけだ。日本製だとさ」

 マーティ「何言ってるんだよドク、日本の製品はみんな最高だよ」

 ドク  「信じられん…」


このシーンのポイントは、1955年当時のアメリカでは日本製品は粗悪な安物と認識されており、それが将来、特に電子機器の分野を筆頭に日本製品は高品質の代名詞になるとは想像もできなかったという事。博識な科学者であるドクですらも例外ではなく、80年代の日本製品を知るマーティとのギャップが面白さを醸し出しています。


実際には1955年(昭和30年)まで日本の工業技術が全てに於いて未発達だったわけではなく、戦後の復興期であったことや、アメリカには"Made in Occupied Japan"のブリキのおもちゃやセルロイドの人形など、安価な製品の供給元として印象づけられていたという背景があって、日本製=安物という印象が定着していたのでしょう。


最近この映画のシーンを思い出したのは、ある時ふいに、この映画の舞台を2000年代の日本に、「日本製」を「中国製」に置き換えると、30年後の中国人たちは私たちと同じような気持ちでこのシーンを見て笑うかなと思い当たったからです。


2004年頃の中国での反日デモの後、それまで中国に対してニュートラルな立場にいた日本人たちも中国に嫌悪感を持つようになり、中国製品の品質の低さやモラルの低さをあげつらって嘲笑し、それによって溜飲を下げようとする傾向が見受けられました。


しかし日本でものづくりに携わっている者として忘れてはならない事は、

技術的な未熟さも

知的財産に対する意識の低さも

産業の拡大が引き起こす公害も

すべて日本が過去に経験してきたという事です。

国際的な批判や市民からの抗議を受けた先人の努力無くして今の日本は存在し得ません。GOOD DESIGN制度の起源もここにあります。


中国もいずれは技術レベルで日本と遜色の無いところまで来ます。

そのときに日本がどのようなモノづくりをしているか。

日本にしか出来ない発想が無い限り、

今、後ろを振り返って中国の未熟さを笑っているようではダメです。

亀を笑うウサギに成り下がってはいけません。



バック・トゥ・ザ・フューチャーに関する裏話的なものを一つ。

Part 1 が公開された後、Part 2が公開される前の話。当時私は電機メーカーのデザイン部に勤務していたのですが、その会社の海外営業部からデザイン部に対して「ある映画に我が社の製品が出るから、この製品のロゴを北米用のブランドロゴに置き換えたモックアップを作ってほしい」という依頼があったことを記憶しています。前述のマーティのセリフはこの電機メーカーが製作協力の見返りとして言わせたものかどうかは知る由もありませんが、もしかするとこれは日本企業の、アメリカ市場に対する勝利宣言だったのかなと思ったりもしました。


バック・トゥ・ザ・フューチャー、今見ても面白い映画です。

まだ見てない方はぜひ。旧作だからレンタルも安いよ。

20100120

八字还没一撇

八字还没一撇
中国語の慣用表現です。「八字還没有一撇」「八字没見一撇」などとも。(「」は日本の漢字に置き換えると「還」。)

PC環境に寄っては表題の文字が正しく表現されないかも知れないので画像も貼っておきます。

意味:
「八字」=「八」という文字
「還没」=まだ〜がない
「一撇」=「左はらい」
「八」という漢字の、最初の一画である「左はらい」もまだ書いていないこと。
=物事を行うにあたってまだ何も端緒についていない、の意。

原典では「八」は門が開いた状態のたとえで、両開きの門の片方すらもまだ開いていない、と言う比喩から転じたとする解説もあります。自国の文化である漢字の、形や書き順を比喩表現に応用するというのは面白いですね。



用例はこんな感じでしょうか。


「今持っているリソースを活かして、新しい事業を始めたいけど、まだ構想の段階で何も始まっていない。"八字還没一撇"だ。」




以下参考までに。
中国語で「撇」(ピィェ)と言うのは漢字の「丿」の部分のこと。
二画目の右はらいは「捺」(ナァ)と言います。
漢字を構成するそれぞれの画には名称があって、例えば:
「一」は「横」
「丨」は「竪」
「亅」は「竪鉤」
「乚」は「竪弯鉤」などと言います。

神戸の中国人小学校では、新しい漢字を習う時、
一画一画ごとにその名前を読みながら覚えたりしていました。
例えば「扎」という漢字なら「横、竪鉤、提、竪弯鉤」という風に。

20100117

神戸の鉄人


昨年夏、奇しくも同じ時期に東はお台場のガンダム、西は神戸の鉄人28号と アニメ・漫画の主人公である18mのロボットが出現しました。お台場のガンダムは当初から期間限定で、夏休みの終わりには解体されて今はもうありません。対して西の神戸の鉄人は今でもまだ立っています。

以前他のデザイナーの方と話していた時にこの鉄人の話題になったのですが、小さい子供たちにとっては鉄人28号というキャラクターがそもそもなじみの薄いもので、実物を見たときにその大きさには驚くけれど、お台場のガンダムほどはピンと来ないようだとのことでした。

出現から半年以上経った、阪神淡路大震災15周年の今日、その鉄人を見に行ってみました。
日曜日で、震災のメモリアルイベントが最寄りの新長田駅前で開かれていたこともあってか、鉄人の設置されている公園もなかなかの賑わいです。見ているとカップルや親子連れ、友達同士で訪れている人たちの他におじいちゃんが孫たちを連れてきている姿も多く、ちっちゃい孫たちが満面の笑顔で鉄人と同じポーズをとり、おじいちゃんがそれを写真に収めるという微笑ましい光景も見られました。


実は当初この神戸鉄人プロジェクトの話を聞いたときには、有名なキャラクターに頼った集客という手法が、(鉄人の作者が神戸ゆかりの横山光輝先生である事を承知の上でも)もう一つ受け入れ難かったのですが、
 完成後の周囲の反応→「実は子供たちにとっては馴染みが薄い」
 今日見た子供たち→「昔から知っているキャラクターとしてではなく、新しいものとして純粋に受けとめている」
と、二重に予想を裏切られた結果、これはこれで良かったのだなと思うに至りました。

特に子供たちの笑顔を見ていて素晴らしいなと思ったのですが、仮面ライダーやウルトラマンと違い、今の子供たちはリアルタイムにメディアを通して鉄人28号というキャラクターを知っているわけではないにも関わらず、彼ら、彼女らはそこにある18メートルのロボットに驚き、感動し、受け止めています。

歳をとっていろんなことを知った気になったオッサンが、馴染みの無いものを見たり、初めての人に出会った時に「こんなもん知らんわ」「あんたなんか知らん」とシニカルな態度をとるのを見ると興冷めしますが、知らなかったものを知ることが出来た、初めての人と知り合うことが出来た、と喜ぶ事ができる心を持った人は、自分自身だけでなく周囲の人や、取り巻く社会をも幸せにできるような気がします。


そんな事を思いつつ帰り際にもう一度振り返ってみた鉄人28号。
棒立ちだったお台場のガンダムと違って、力強いポーズの神戸の鉄人には神戸市民の思いがこもっているようで、

なかなかええやないの。

20100110

OB会

今を去る事20数年前、京都市立芸術大学でデザインの勉強をしていました。
当時は日本に4校しかなかった国公立の芸術大学の一つです。
(ちなみに後の3校は東京芸術大学、金沢美術工芸大学、愛知県立芸術大学)

卒業後すぐに関東の会社に就職したため、日常的に同じ大学のOBたちと会う機会もほぼ無くなったのですが、2年前に拠点を神戸に移してからは関西で活躍する先輩後輩たちと旧交を温める機会も増えました。

昨日は40代を中心としたOB有志による恒例の新年会に初めて参加させてもらいました。何せ学生数の少ない大学なので、同時期に在籍していた学生は(よほど制作室にこもりっきりでない限り)ほとんど顔見知り。当時あまり付き合いがなかった人でも、共通の知人を辿るのはたやすく、すぐに打ち解けられる関係です。

皆さんそれぞれにいろんなフィールドで活躍しておられ、お互いの近況を報告したり、懐かしい仲間のうわさ話をしたりと、お店の定員を超えた20人以上の笑い声が絶えない楽しい会でした。

同じ時代に同じ場所で、そこにしかない空気を創りだした仲間たちとは20年以上の時を経てもどこかで繋がっていられるものだなと思います。今学校に通っている学生の人たちも、多くの仲間たちと一緒に笑ったり、感動したり、純粋な気持ちで衝突したりしながら、とにかく時代を共有してください。きっとかけがえのない財産になりますよ。