20100202

役に立たない機械

昨夜ある深夜TV番組で「役に立たない機械」が取り上げられると知り、録画予約をして朝イチで見てみました。某大学の理工学部では一年生に対して「役に立たない機械を作りなさい」という課題が出されるとのことで、番組では学生たちが作ったその「役に立たない機械」ーーまったく何の役にも立たないものから役に立ちそうなもの、題名を限定さえしなければ何かの役に立ちそうなものまでーーが次々と紹介され、朝っぱらから笑わせてもらいました。
学生たちは、「役に立たない」+「機械」という課題を掘り下げて行く中で、機械とはどのように定義されるのか、役立つとはどういう事かを深く考えたのではないでしょうか。

さて、私がこの番組のタイトルに興味を引かれたのはブルーノ・ムナーリ(1907-1998)の「役に立たない機械(macchina inutile)」を連想したからです。ムナーリはイタリアの美術家・デザイナー・評論家…で、活動の初期に於いて未来派に参加していました。彼の"macchina inutile"は1930年代の作品。様々なタイプのものがあるらしいのですが私が知っていたのは「たがいに細い糸で結びつけられた幾何学的な形状の薄い板が天井から吊るされ、空気の流れを受けて動きつつ、かつお互いに触れ合わない」というもの。今で言うモビール。原初的なキネティックアートの一つです。
彼は著書「芸術としてのデザイン(Arte Come Mestiere)」の冒頭でこの作品に触れ、同時期に同様の原理にもとづく一連の作品を米国で発表し称賛を受けたアレクサンダー・カルダーを引合に出しつつ、やや自虐的に自分の作品は友人たちに嘲笑され、カルダーの模倣と見なされたと述べています。しかしこの作品が(少なくとも製作当時の)彼にとって重く位置づけられていたことは疑いありません。
ムナーリはこれを"macchina inutile"と名付けました。これがmacchina(=機械)であると宣言した上で、機械は人間にとって生産的な仕事を行う(=役に立つ)ことを期待されているとするならばこれは「役に立たない」、しかしわずかな空気の動きに反応して絶えず新しい姿を見せ、人々の視線を奪うこの「機械」を「役に立たない」と切り捨てることが出来るのかという問いかけが、「役に立たない機械(macchina inutile)」という名に込められているように思えます。


冒頭に述べた大学の課題とムナーリの作品、日本語ではどちらも「役に立たない機械」ですが、それぞれの立場は正反対ではないでしょうか。

この大学の准教授は、美を定義するカントの言葉を引用していました。
ムナーリは著書の中でデュカッセ(←誰か知らんけど)の言葉を引き、機械と人間を語っています。
理工学者が美の定義を求め、美術的表現者であるムナーリは技術の定義を求める。
その対比が非常に面白く感じられました。


しかしこの番組、関西ではほぼひと月遅れの月曜深夜に放送されているという事実を今回初めて知りました。



参考書籍
[芸術としてのデザイン]
ブルーノ・ムナーリ(著)
小山清男(訳)
ダヴィッド社
ISBN4-8048-0046-8

0 件のコメント:

コメントを投稿